ミヒャエル・エンデ『モモ』と私たちの喧嘩

Halu Amatsujiさんの好き語り

手渡された本と同僚との喧嘩

「はい、これ。貸してあげる」

職場の友人が、そう言って私に一冊の本を渡してきた。その友人と私の関係性は少し奇妙で、互いに面白いと思った本を交換するだけの関係だ。それ以外はただ同じ職場の同じ部署というだけで、特別に仲がいいというわけでもなく、よく喋るわけでもなく、一緒に飲みに行くこともなかった。ただ面白いと思った本を互いに勧めるだけの関係だった。

ありがとうと言って、彼女が手渡してきた本を見てみると『モモ』と書かれている。裏表紙のあらすじを読んでみるとこう書いてあった。

「町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作」

「時間」とは何か。その言葉が一番心に残った。思い返してみると時間について考えたことはなかった。1日は24時間。ただそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。当たり前の事実。これ以上考えることなど何もないと思っているからだ。

「最近、小説を読んでる時間ないんだよな」

彼女の勧めではあったが、断ってしまいたかった。今の私に小説を読んでいる暇はないのだ。そんなことに時間を使うくらいなら、自分の成長のためにビジネス書を読んでいたかった。

「面白いから読んでみなさいよ。今のあなたにぴったりな言葉がたくさん書いてあるわ。何かに焦ってイライラしているあなたにね」

体の中で熱いものが沸騰していることを感じた。普段なら何も思わない彼女の言い方にどうしてか怒りを抱いてしまう。

「特に、その本の中に出てくる街の人たちが今のあなたにそっくりで笑ってしまったわ。この人たちみたいにはなりたくないものね」

そう言われて堪忍袋の緒が切れた。我慢ならなかった。自分がバカにされた気がして、火山が噴火したように、怒りが湧き出てきた。

「俺に似ているだって? そんなわけあるかよ。何くだらないことを言っているんだ。お前さんらしくもない。この本の主題は時間みたいだけどな、1日は24時間、それ以上でもそれ以下でもないんだ。どこに住んでいたって、どんな人種だって、この世界に住んでいる以上それは変わらない。変わりようのない事実なんだ! だから、俺はその24時間の中にやれるだけのことを詰め込んでいるんだ! それの何が悪い!」

社内でこんなに大声を出したことがなかったので、周りの人たちが一斉にこちらを振り返った。

「やだやだ。そんな考え方だから、こんな些細なことにもイライラするのよ。もっと心を豊かにしないと。最近のあなたは本当に見ていられない。何をそんなに生き急いでいるんだか」

私は彼女の言葉に何も言い返せなかった。言い返したいのに何も言葉にならなかった。「生き急いでいる」という言葉がナイフのように私に突き刺さったのだった。

「あら。図星だったかしら。まぁ一度読んでみて、自分のことを見つめ直してみるのね」

自分を言い負かしたことが嬉しかったのか、自分の席に戻っていく彼女の足取りはとても軽やかだった。

彼女にそう言われてから、すぐに『モモ』という小説を読む気にはなれなかった。親に反抗する中学生のようなささやかな抵抗だった。言いなりになって読むことは彼女に対して負けを認めてしまうことになる。言い合いでも負けてしまっているのだから、さらに負けることなどプライドが許さなかった。

だが、そんな私の感情とは裏腹に、ずっと心の中に残り続けているものがあった。その言葉は、毒のように徐々に私の心にダメージを与えていた。

「生き急いでいる」という言葉が私の頭の中をぐるぐると回っていたのだ。

生き急いでいる自覚はなかった。むしろ生き急いでいるくらいでなければ、周りに置いていかれてしまうと思っていた。

しかし、現実はそう甘くはなかった。

 

辛い現実

月末の業績が発表された。それを見た瞬間、私を支えてきた自信がシャボン玉のように弾けて消えた。

「あいつよりも業績が下……?」

今月の業績が彼女よりも下だったのだ。しかも、彼女との差は圧倒的だった。

ありえない。ありえるはずがない。頭を抱えた。本を読んだり、友人と遊んでいたりしている彼女に負けているなんておかしいと思った。私の方が絶対努力しているはずなのに。

「なんで俺よりお前の方が業績がいいんだよ! 俺はこんなにも努力しているのに! なんでお前に負けなきゃならないんだ!」

火山が噴火したように一気に感情が爆発した。怒り、悔しさ、悲しみ、持っている全ての感情を彼女に向かって吐き出した。彼女は小さくため息をついて、やれやれといった感じでつぶやいた。

「うるさい。少しは静かにできないの? 勤務中よ」

はじめて聞く重々しい彼女の声だった。

「あなたは勘違いをしているわ。努力しているのはあなただけじゃない、私も努力しているの。その成果がたまたま出ただけ。ラッキーだっただけよ」

「ラッキーだけで片付けられるか! こんなに悔しい思いをしたのははじめてだ! あんなにも努力をしていたのに」

自分の努力を無下にされたような気がして、さらに声を張り上げた。

「この前勧めた本は読んだの? たぶん、その感じじゃ読んでないみたいね。見ていていたたまれないからあの本を読んで考えてほしかったのに、徒労だったみたいね。残念だわ」

私にも聞こえるように、彼女は、はぁとため息をついた。

「本なんて読んでいる時間なんてあるもんか! 少しでも業績を上げようと必死になっていることのどこが悪い!」

「それが良くないのよ!」

私の言葉を遮るかのように彼女が大声を上げた。あまり感情を見せることがなかったので、驚いて何も言い返せなかった。

「本なんて読んでいる時間がないですって? 冗談じゃない。それだから私に負けるのよ。今のあなたは心に余裕がなさすぎ。なんでそんなに生き急いでいるの? 周りに置いていかれるから?」

「そうだよ、いけないかよ」

「周りに置いていかれないために何をしたの? 周りの人にアドバイスを求めた? 本を読んだ? 自分の考えを話したりした? まさかやってないわけがないわよね」

彼女が言っていることを私は何もしていなかった。時間を節約するために切り捨ててきたからだった。

「それらをやらないでよく業績が上がると思っていたわね。バカバカしい。一人でやれば業績が上がると思っていたの。思い上がるのもいい加減にしなさい。一人でふさぎ込んでいてたら心が貧しくなってくるに決まっているわ。そして次第に焦るようになってイライラし出す。ほんと今のあなたね。よく考えてみて。無駄な時間を削って、新しいことを始められた? 何も変わらなかったんじゃない? それどころか1日の時間の流れが早くなったんじゃない?」

ここ最近の1日のスケジュールを思い出してみた。朝から夜まで1つずつ。

彼女の言う通り、これまでと何も変わらなかった。周りの人と会話していたり、彼女から借りた本を読んでたりしているときと何も変わっていなかったのだ。

「とにかくあの本を読んでみて。そして私の言ったことを考えてみて。今のあなたは本当に見ていられない」

そう言い残し、まるで何事もなかったかのように彼女は業務に戻っていった。社内のざわつきだけが私の耳に残り続けた。

 

時間どろぼうに時間を奪われていた?

彼女に言われたことを確かめるように、私はモモを読み始めた。はじめはなんだか彼女の言う通りになっていることが癪に障りなかなか進まなかった。物語に入っていけないままページを捲っていった。

しかし、途中から一気にストーリーに引き込まれていく。それは時間どろぼうが出てきたあたりからだった。

彼らは街の人に時間を節約するように促す。計算によって無駄にしている時間を正確に伝えることで、今までどれだけの時間を無駄に過ごしていたのかを自覚させる。「これからもこうやって無駄な時間を過ごしていくのか」と自問させる。こうなればどろぼうの思う壺だ。自分に残されている時間は一生のうちでわずかしかないのだから、その時間を増やすために、無駄な時間を削り始める。その時間は、友人との会話だったり、恋人の元へ行くことだったり、さまざまだ。

時間を節約して過ごしている街の人の姿はまさに私の生き写しだった。彼女が言っていたことはこのことだったのだ。

「そうか。こんなにも貧しい生活をしていたのだな。無駄な時間をなくせばいいことがあると思っていたけど、これじゃ生きながら死んでいるもんだ」

街の人たちが次第に時間を節約するようになっていく姿を見て、いたたまれない気持ちになった。

「モモのところへいってごらん!」が合言葉だった街の人たちは、次第にモモの元を訪れなくなっていく。古くからの友人も仲が良かった子どもたちも一人としてやってこなくなってしまった。

そのモモの姿が、この前言い争った彼女の姿に重なった。

思い返してみれば、最近本を勧めるのは彼女だけで自分は全く勧めていなかった。お前も本を勧めろよという彼女なりのメッセージだったのかもしれない。

そう思ったとき、少し心の余裕が出てきたのを感じた。

「本読まなきゃな……」

彼女にあそこまで言わせていた自分が、急にとても恥ずかしくなった。

 

時間浪費家からの脱出―『モモ』を読んで気付かされたこと―

モモを読み終えてから、1日にスケジュールを詰め込むことをやめた。一生の中で無駄な時間などないということを学んだからだった。

”時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。”

このモモの一節が伝えているように、いつの間には私の生活は痩せ細ってしまっていた。時間とは生きるということ、誰と話していても、本を読んでいても、そのことは変わらない。時間を節約するということは、生きることを節約していることにもなるのだ。それを続けてしまっていたから私の生活は痩せ細っていたのだ。

もっと時間を大切にしよう。周りの人と話している時間も生きていることを実感できる大切な時間じゃないか。そう思えたとき、今まで悩んでいた周りの人との競争がどうでもなくなっていることに気づいた。それよりも大切なことはたくさんあると思えたからだ。

「まずはあいつからだな」

あの一件以来、彼女とは話せていなかった。どうも話しかける勇気が湧かず、避けるようになってしまっていたのだ。だが、いつまでもモモを持っているのもはばかられる。

休憩時間を見計らって話しかけることにした。

「これ、返すよ。それとこの前はごめんな。大人気なかった。街の人たちみたいって、お前が言っていた意味がようやくわかったよ。モモを読むまでの俺は、時間どろぼうに時間を奪われていたらしい。それをモモが取り返してくれたよ。時間を節約しても、心が貧しくなっちゃだめだな。生活が痩せ細ってしまう」

今まで女性と話したことがないのかと思ってしまうほど、ギクシャクした話し方になってしまった。今すぐここから逃げ出したかった。

「こちらこそ、怒鳴って悪かったわね。私の言ったとおりだったでしょ。常にイライラしてそうだったし、なんでそんなに時間を節約してるんだろうって思っていたから。モモはそんなあなたの処方箋になったみたいで良かったわ」

ふふっと微笑みながら彼女は返事をした。あの日のことなど何も気にしていないような晴れやかな表情だった。

「ほんとにいい薬になったよ。もう心を殺して生きるのは勘弁だ。今までの時間は何だったんだって思ったよ」

「そんなことはないわよ。あの時間がなかったら、モモの良さを味わえることはなかったのだから」

「それもそうだな」

自然と笑みがこぼれていた。最近感じることがなかった清々しい気分だった。

 

時間とは何なのだろうか、『モモ』という小説は読者である私たちに問いかける。

あなた達の周りに時間を節約しすぎている友人はいないだろうか。以前の私のように生き急いでいると感じる友人が。

また、あなたは生き急いでいないだろうか。一度自分に問いかけてほしい。

『時間どろぼうに時間を奪われてはいないか?」と。

目標に向かって努力することは大事だ。しかし、そのせいで周りのことを犠牲にしてしまうことほど悲しいことはない。

友人とくだらない話をすることも、読書をして新しい考えを知ることも、YouTubeを見て笑うことも、映画を見て感動することも、どれも人生において必要なことだ。決して無駄な時間ではないのだ。その時間を節約するのはもったいない。どれも私たちの心を、生活を豊かにしてくれるものなのだから。

時間の大切さに気付かされたのは、彼女に勧められた『モモ』だった。

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この"好き"を書いてる人

Halu Amatsuji

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